神風特別攻撃隊は第二次世界大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装攻撃機による体当たり攻撃武隊(特別攻撃隊)と直接援護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊である。
米国戦略爆撃調査団からは「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器」とも評された。
特攻初陣の五人
五 軍 神
敷島隊隊長 第1番機 関 行男 中佐 23才 愛媛県西条市
第2番機 中野磐雄 少尉 19才 福島県原町市
第3番機 谷 暢夫 少尉 20才 京都府舞鶴市
第4番機 永峰 肇 飛行兵曹長 19才 宮崎県宮崎市
第5番機 大黑繁男 飛行兵曹長 20才 愛媛県新居浜市
神風特別攻撃隊は、本居宣長の歌で
敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
という歌から 敷島隊 大和隊 朝日隊 山桜隊 という名前が付けられた。
神風特攻敷島隊
第1番機 関 行男(せきゆきお)
生誕
大正10年(1921)8月29日、愛媛県西条市栄町で古物商を営む父・関勝太郎と母・サカエの子として生まれる。
略歴
昭和 13年 12月 海軍兵学校(70期)へ進学
昭和16年11月15日 海軍兵学校卒業(70期)
昭和16年11月15日 戦艦「扶桑」乗り組み
昭和16年12月8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年 4月 軍艦「千歳」乗り組み
昭和 17年 6月 少尉
昭和18年 1月 第39期飛行科学生を拝命。霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。
昭和18年 6月 海軍中尉に任官。
昭和18年 8月 宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。
昭和19年1月 霞ヶ浦海軍航空隊付き(操縦教官)
昭和19年5月 1日 海軍大尉に進級。
昭和19年5月11日 婚姻願を提出、
5月26日 海軍大臣の許可
5月31日 福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式を水交社で執り行った。
昭和19年 9月 台湾を経てルソン島マバラカット基地
昭和19年10月19日 神風特別攻撃隊敷島隊の指揮官発令
昭和19年10月21日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月22日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月23日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月24日 出撃、敵機動部隊を発見できず帰投
昭和19年10月25日 出撃、米空母セント・ローに体当り散華(享年23才)
昭和29年10月25日 伊予三島市(現:四国中央市)に墓碑建立(没後10年目にして初)
昭和49年 5月 7日 現地人有志によりマバラカット飛行場跡に慰霊碑建立
昭和53年 3月 21日 西条市楢本神社に慰霊碑建立
遺 書
父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。 皆様御体大切に
満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る。何も言はずとも武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ。御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す。
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如くに
ご母堂の戦後
戦後、ご母堂サカエさんは日々の生活にも困窮し草餅を作って売り歩いたが、昨日までサカエさんを「軍神の母」と神様扱いした人々は冷たかった。
その後、中学校の用務員となったが、昭和28年「せめて行男の墓を…」との遺言を残し、用務員室でその生涯を淋しく閉じた。ここに関家は断絶した。
戦後の世相は、祖国を護るために散華した軍神の墓を建てることさえも許さなかったのである。
第二番機 中野磐雄 (なかのいわお)
生 誕
大正14年(1925) 1月1日
「相馬野馬追祭」で有名な福島県相馬郡原町南新田字町57番地(原町市本町3丁目)
金物商を営む、父中野松太郎、母ヒデヨの9人の子の末子として生まれた。
略 歴
昭和 6年4月 原町尋常高等小学校(原町市立原町第1小学校)入学
昭和12年3月 同校初等科卒業
昭和12年4月 県立相馬中学校(福島県立相馬高等学校)入学
昭和17年3月 同校卒業
昭和17年4月 甲種飛行予科練習生(第10期)として土浦海軍航空隊に入隊
昭和17年10月1日 海軍一等飛行兵
昭和17年 三重海軍航空隊
昭和18年6月 三沢海軍航空隊
不詳 第265狼戦闘機隊配属
昭和19年 グアム島転戦
昭和19年10月 201空に編入
昭和 19年10月25日 第1神風特別攻撃隊敷島隊員として海軍一等飛行兵曹で散華した。
享年19歳、二階級特進、海軍飛行兵曹長、後特進海軍少尉
(福島県南相馬市原町区・夜の森公園)
碑 文
中野少尉名ハ磐雄
大正14年原町ニ生マル
父ハ松太郎母ハヒデヨ
昭和17年報國ノ志ヲ立テゝ土浦海軍航空隊ニ入ル
ヤガテ戦況逆転シ國運ノ危殆ニ瀕スルヲ見慨然身ヲ挺シテ之ヲ挽回セントシ率先神風特別攻撃隊敷島隊ニ加ハリレイテ島沖ニ敵艦ヲ急襲シ身ヲ以テ弾丸トシテ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ
時ニ昭和19年10月25日未明
享年19歳
二階級特進海軍少尉ニ任ジソノ戦功ヲ表彰セラレタリ小中学同級ノ友人追慕ノ情ニ堪ヘズ相謀リテ記念碑ヲ建テ永ク忠烈ヲ傳ヘントス
文学博士 平泉澄撰
第3番機 谷 暢夫 (たにのぶお)
生 誕
大正13年6月
岐阜県揖斐郡大野町の浄土真宗の家に長男として生まれましたが、お父様が舞鶴
市の初代明教寺住職となったので家族で舞鶴市に移り住む事になりました。
略 歴
昭和 6年4月 西郡小学校入学
昭和12年3月 同校初等科卒業
昭和12年4月 県立本巣中学校入学
本巣中学校第二学年終了後、京都府立舞鶴中学校へ転校
昭和17年4月 甲飛10期生として土浦航空隊入隊
昭和18年 千歳海軍航空隊
昭和18年 松山海軍航空基地戦斗201豹戦斗機隊配属
昭和19年 グァム島に転戦
昭和19年10月25日 神風特別攻撃隊敷島隊員として散華 享年20才
谷暢夫遺書
「はじめありて 終わりあるもの 鮮し」
永らくのご厚思を謝す、何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。
忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。
ご両親の長寿を切に祈ります。
「日の本の 空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ 桜花こそ」
辞世
身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り .
身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん
岐阜県揖斐郡大野町
第四番機 永峰 肇(ながみねはじめ)
生 誕
大正14年4月1日
宮崎県宮崎郡住吉村大字新名爪113番地
父・永峰萬作、母・ステの長男として誕生
略 歴
昭和 6年4月 1日 住吉尋常高等小学校入学
昭和12年3月27日 住吉尋常高等小学校卒業
昭和12年4月 1日 住吉尋常高等小学校高等科入学
6年間無欠席に付き精勤賞を受く
昭和14年3月27日 住吉尋常高等小学校高等科卒業
2年間無欠席に付き精勤賞を受く
昭和14年 4月 7日 住吉青年学校入学
長男として家業に従事しながら学ぶ
昭和17年4月 29日 念願であった海軍入隊のため、住吉青年学校本科第四学年を退学
昭和17年5月 佐世保第二海兵団入隊
昭和17年8月 駆逐艦「初春」に搭乗、南方勤務に付く
昭和17年12月 1日 第15期丙種(部内選抜)飛行予科練習生として三重海軍航空隊入隊
昭和18年 3月27日 第31期飛行練習生として谷田部海軍航空隊入隊
昭和18年 9月20日 戦闘機専修として徳島航空隊入隊
昭和19年 1月29日 卒業、飛行科に転科上等飛行兵となる。
築城海軍航空隊
昭和19年2月11日 南方方面派遣 所属部隊 呉気付テ四七ウ203部隊
昭和19年5月 1日 飛行兵長に昇級
昭和19年10月25日 神風特別攻撃隊の一員として出撃 散華 享年19才
永峰は、生前検閲の入る手紙や日記を殆ど書いていないため遺書が無かったが、マバラカット基地に生還した飛行機の中に
「南溟に たとへこの身が果つるとも いくとせ後の春を想えば」
と彫られているのを整備兵が偶然見つけた。
これは永峰の辞世の句とされ、整備兵が紙に写し取った後に、永峰の両親へ送っている。
第五番機 大黑繁男(おおぐろしげお)
生 誕
大正14年5月20日 愛媛県新居浜市金子乙2005番地
父・大黑宗三郎、母・スガの長男として誕生
略 歴
昭和 6年 4月 宇摩郡葱尾尋常小学校へ入学
昭和10年12月 新居浜市金子尋常高等小学校五年生組へ転校
昭和14年 3月 同校高等科2年卒業
昭和14年 4月 愛媛県立新居浜工業学校専修科1年に入学
昭和15年 3月 同校専修科卒業
昭和15年 4月 住友重機械工業株式会社新居浜製造所へ入社
昭和17年12月 佐世保海兵団へ入団 飛行科に進む
昭和18年 3月 第17期丙種(部内選抜)飛行予科練習生として岩国海軍隊入隊。
昭和19年 3月 第33期飛行練習生卒業・飛行科に転科1等飛行兵となる。
昭和19年 5月 上等飛行兵
昭和19年10月25日 神風特別攻撃隊敷島隊の一員として出撃 散華
家族に宛てられた手紙
拝啓 其の後皆様相変わらずお元気にて御暮ですか、御伺申し上げます。下って私も相変わらず元気一杯軍務に精励致して居ります故御休心下さい。今頃は内地も相当暑く厳しいが、夜分になると毛布が必要な程です。
想ったよりは住みよい土地です。「マラリヤ」「デング熱」とか南国特有の病気もありますが、小生はお陰様にて、病気等は何のその1日として休んだときはありません。当地にも少数の邦人が住んで居りますが、皆非常に親切です。やはり遠く国を離れると邦人が一番懐かしく感じます。之等の人々と面白い話に花の咲くことも暫々あります。
「バナナ」「パイン」美味しい果実も沢山あります。「椰子」「パパイヤ」等珍しきものばかりです。私は家のことを思うにつけ何事も元気に暮らして居られると信じて居ります。三豊も今では軍人となって一所懸命に頑張って居ることでしょうね。その後、永く便りをとりかはした事はありませんが、家には何時も便りがあることでしょう。この戦は本当に国を挙げての戦争です。今迄一人も軍人として国に報いて来た人の無かったこと、私は子供の頃より残念に思って居りました。今では兄弟二人軍人としてご奉公出来る様に成りました。私は家の誇りと思って居り、此の上は他人に負けぬ働きを成す事が一番大切です。私も攻撃の時は無念無想、任務完遂に邁進致します。弟にも此の事を暮々も云いふくめて下さい。父母様も相当のご年齢故無理をなさること無く我等の働きを見ていて下さい。祖母様も何卒御身体に気を付け何時迄も元気で居て下さい。病気に懸からぬも懸かるも気の持ち方一つだと何時も私は思って居ります。田之上や久保田の人々にも何卒宜敷御伝へ下さい。隣の人々も皆、元気な事だろうね。私6月12日機上より家を見ましたが、落下して見たい様な衝動にかられました。其の時は運悪く曇り勝ちな天気でした。大阪の叔母様方も見たか分かりませんでした。それも唯一寸の時間で、又、次第に遠ざかって行きました。其時は平和其のものの様に見え、安心しました。此の手紙が届くときは何時の日か知れませんが、何卒皆様御元気で、銃後の守りに邁進して下さい。今日は之にて、後便にて。
繁男より御一同様
愛媛県新居浜市
神風特別攻撃隊 関 行男 中佐
指揮官任命
昭和19年10月17日
第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着
昭和19年10月18日
◉ 大西は参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る。
昭和19年10月19日
◉ 夕刻近くにマバラカットに到着の後、指揮所に201空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する。
◉ 大西と入れ違いにマニラへ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した201空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた。
◉ 玉井は体当たり攻撃法に賛成し、戦闘305飛行隊長・指宿正信大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った。
◉ 玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。
すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井が第263海軍航空隊時代から何かと甲10期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲10期生に一花咲かせようという魂胆からだった。
◉ 201空にいた甲10期生は63名で、体調不良だったり日本へ航空機受領に行って いた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした。
◉ 指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、猪口の提案であった。
◉ 猪口の構想では、指揮官には当初第306飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ機材受領に赴き不在であったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。
◉ その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している。
◉ 猪口の賛成を得た玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを告げた。
◉ 猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという。
◉ 玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたという。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書いた。
◉ 猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガー(独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという。
◉ 玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「神風特別攻撃隊」と命名するよう願い出て、大西に了承された。
◉ また大西は、各隊に敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した。
出撃
10月21日朝
◉ 100式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見、これを報じる。◉ 敵艦隊発見の報を受け敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動、出撃は敷島・朝日の
二隊に決定。
この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任、「敷島隊」も永峰肇飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられ総勢5名となる。
◉ 関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴いマバラカット西飛行場を発進した。日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別と、この日の出撃を組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された。
◉ マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流し、敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに引き返した。
10月22日早朝
◉ 「敷島隊」、「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。
◉ この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。
出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった。
予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した。しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日に本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定して発表された。
10月23日
◉ 「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。
唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。
関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。
10月24日
◉ 大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる。
◉ 「敷島隊」には戦闘311飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加わった。
突撃(戦死)
10月25日 7時25分
◉ 関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する。
◉ 途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる。
◉ 10時10分 レイテ湾突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後、
10時40分 護衛空母5隻を基幹とする第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ
少将)を発見して突撃機会を伺い、
10時49分 僚機と共に突入して戦死した。 関 行男 享年23。
◉ 「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。
◉ 1機はキトカン・ベイの艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中、カリニン・ベイには1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した。
◉ ホワイト・プレインズを狙った1機は、被弾により操縦不能、よって狙いが外れ艦尾至近の海中に突入、セント・ローにはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上、セント・ローは11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した。
◉「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である。
発表とその後
特攻第一号
◉ 昭和19年10月28日
神風特攻隊の戦果が「海軍省発表」で公表された。
敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。
◉ 国民が神風特攻隊を知ったのは昭和19年10月29日の新聞による特攻第一号・関中佐の発表が最初だった。
そのため、敷島隊隊長・関行男中佐は「特攻第1号」として大々的に発表されたが、戦後は21日に未帰還となった大和隊隊長・久納好孚(くのうこうふ)大尉を未確認ながらオーストラリア海軍重巡洋艦への特攻として久納を第1号とする主張もある。
戦 後
◉ 戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中で仇となり、関や遺族は終戦後、一転日陰の存在となった。
戦後しばらく軍人の遺族に国からの扶助などが行われなかったため、関の遺族も生活は苦しかった。
◉ 関には子供が存在せず、妻の満里子は戦後に再婚した。
◉ 母・サカエは草餅の行商で生活し、後に石鎚村立石鎚中学校に学校用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさん、関おばさん」と呼ばれて親しまれたが、
昭和28年11月9日に用務員室で57歳で急死した。
◉ サカエの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され、
昭和50年には関の慰霊と平和祈願のため、関親子を昔からよく知る西条市楢本神社神主・石川梅蔵の発願により、元海軍大佐で国会議員だった源田実の協力も得て、楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された。
◉ 毎年10月25日には、赤十字飛行隊が慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。また靖国神社には関の遺影が祀られている。
関サカエさんの戦後
◉ 戦後、ご母堂サカエさんは日々の生活にも困窮し草餅を作って売り歩いたが、前日までサカエさんを「軍神の母」と神様扱いした人々は冷たかった。
◉ その後、中学校の用務員となったが、昭和28年「せめて行男の墓を…」との遺言を残し、用務員室でその生涯を淋しく閉じた。ここに関家は断絶した。
戦後の世相は、祖国を護るために散華した軍神の墓を建てることさえも許さなかったのである。
マバラカットの神風慰霊碑
◉ 昭和49年5月7日、フィリピン人 ダニエル・デイゾン氏によってマバラカット
の海軍201空基地跡に
「第二次世界大戦に於いて日本神風特別攻撃隊が最初に飛び立った飛行場」
の記念碑が建立された。
◉ 記念碑の除幕式には多数の参列者が有ったにも係わらず、日本からの参加者は一人
もいなかった。
日本人が忘れている神風特攻隊の偉業を、外国人が認め顕彰したのである。
神風特攻隊全戦没者の碑 碑文(原文は英語)
ここは第二次世界大戦当時最初のカミカゼ基地、マバラカット東飛行場跡です。
カミカゼ特攻隊は昭和19年10月25日、大西海軍中将によってマバラカットで編成された。
最初の志願者は当地に進駐していた帝國海軍第一航空艦隊第201航空隊所属の搭乗員24人でした。
最初のカミカゼ隊指揮官は、大尉・関 行男で「神風特別攻撃隊」と呼ばれ敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の四隊に分かれていた。
昭和19年10月25日敷島隊は関大尉指揮のもとに午前7時25分ここを飛び立った。
部下隊員は一等飛行兵曹・中野磐雄、一等飛行兵曹・谷暢夫、飛行兵長・永峰肇、上等飛行兵・大黒繁男でした。
同日午前10時45分レイテ近海にて米海軍空母群を発見。先ず関大尉機が米艦
セント・ローに体当り爆破20分後に沈没させ隊員機は米艦カリニンベイ、同キトカンベイ、同サンガモン、同サンテイ、同スワニー、同ホワイトプレンズを攻撃した。
戦果では関行男大尉を「世界最初の正式人間爆弾」としている。
第二次世界大戦終了までのカミカゼ特攻の戦果は米艦隊の撃沈又は大破合計322隻、兵員に与えた損害9,000人以上であった。そしてカミカゼ隊員5,000人の内4,600人が戦死した。
カミカゼ特攻はすべての世界史に記録の例のない壮挙であり、又歴史のあきらかにするところによれば、その背後にあった理念は正に凡ての国が相互尊重と機会均等の原則に従って共存共栄を偕(とも)にする世界の秩序と平和の確立をひたむきに願い、その実現のため散華したことです。
この碑は、神風特攻隊戦没者全員と米国および連合国の犠牲者のために建立されたものである。
訪問者はこれら英霊の永遠の鎮魂と世界の恒久平和のために、祈りを捧げてください。
西条市楢本神社 関行男慰霊之碑 碑文
人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭(な)かしむ」とはまさにこのことである。
この種の攻撃を行った者は、わが日本民族を除いては見当たらないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意志に基づいて絶対に生きて還ることのない攻撃に赴いた事実は、真にわが武士道の精髄であり、忠烈万世に燦たるものがある。
昭和19年10月20日神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。
この攻撃隊18機(うち半数は直掩隊)は10月25日出撃し、6機は護衛空母に命中し、三機は至近弾となって敵艦を損傷した。
中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(14,000屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、解体二つに折れて轟沈するという偉功を奏した。
関行男大尉がその教え子に残した辞世の句
教え子は散れ山櫻 かくの如くに
副碑碑文
◉ 関行男は西条市栄町下組関勝太郎の長男、大正10年8月生誕す。
幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ
◉ 昭和9年3月大町小学校卒業次で県立西条中学校へ入学 昭和13年2月江田島海軍兵学校(第70期生)へ入学し 帝國海軍軍人としての宿望を果たすと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大尉に任官す
◉ 大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊敷島隊々長として出撃し、皇国悠久の大義に殉ず
◉ 豊田連合艦隊司令長官は、忠烈万世に燦たる関の殊勲を全軍に布告し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す
◉ 西条市の旧海軍々人をもって組織する海軍会の有志相議りて、遺族無き軍神、関行男の慰霊碑を建立し、源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す
◉ 自今、毎年10月25日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花供饌して霊魂安眠の礼を執り行なって遇(ぐう)す
依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを