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大西瀧治郎(中将)

◉ 終戦の2年前から海軍には、体当りを目的とした特殊航空隊などの特攻思想があり、後に大西中将がマニラに着任した時には、既に海軍内では特攻を行う為の様々な特攻兵器が開発中で、大西中将は、元々『搭乗員が100%死亡する攻撃方法は採用する時期ではない』と退けるなど、海軍内でも特攻思想とは一番距離を置く人物であった。
◉ 特攻作戦が開始されても、『統帥の外道』で、本来あってはならない作戦と自ら言い、海軍内では大東亜戦争の終盤まで、航空機増産に一番尽力していた。
 しかし、1944年6月のマリアナ沖海戦での連合艦隊の一方的な敗北以降、従来の航空攻撃では連合軍艦船に対してほとんど打撃を与えられなくなった状況で特攻戦法の導入を主唱したのは、ほかならぬ当時第1航空艦隊司令長官の大西であった。

◉ 大西中将は特攻隊の生みの親と信じられているが、特攻という暗部を、一言も弁明せず自分一人で墓場まで背負って行くのが日本海軍史にとって最良の方法であることを直感していたのだろう。
◉ 1945年8月16日、渋谷の軍令部次長官舎で割腹自殺。
 
遺 書
特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、
吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い
聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と
世界人類の和平の為 最善を尽せよ 
 
海軍中将 大西瀧治郎